宮崎駿・高畑勲による保田道世さんへの追悼文〜ジブリ『熱風』17年1月号

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画像はジブリの年賀状より。宮崎駿監督による絵で、省略と描き込みが面白く可愛い。

  1. 今月号のジブリのフリーペーパー『熱風』は大きな特集はなし。「ぐるりのこと。」「恋人たち」の橋口亮輔監督へ中くらいのインタビュー。橋口監督の生き様を知れてとても面白かった。幾分橋口監督が乱暴に見えてしまっているところはあり、もし今のネットに公開したら、「君の名は。」絡みで炎上してしまうだろな、と思うが、それが雑誌の良さだと思う。私は読めて良かった。
  2. 特別寄稿の川内有緒さんの旅行エッセイも良かった。川内さんのエッセイは、登場する人物との"距離が近くなる"のが早くて、そこが面白い。たった数ページの原稿なのに、もうさっこちゃん、が身近で、実際に存在しているのを感じる。
  3. 何と言っても、今月号は、昨年10月に亡くなられた色彩設計・保田道世さんへの追悼企画だ。「宮崎監督が"戦友"、高畑監督が"同志"と呼んだ」
  4. 高畑勲監督の文章では、『火垂るの墓』での知られざるエピソードが明かされている。それは、"たったひとつの行き違い"。スケジュールの都合上、どうしても色が塗られないままのフィルムが出てしまい、どうにか演出で切り抜けた高畑勲監督へ、保田さんから怒りの手紙が届く。
  5. 宮崎駿監督のは詩だった。

もう一寸時間があると ぼくらは
思ってたんだ

 涙が出た。

ネット上の表現に足りないのは"時間"感覚〜はてブを10年分整理してみて

  1. ずっとやろうやろうと思っていて、なんとなく時代の節目を感じている今、ようやく着手した。はてなブックマークの整理である。私は使い始めたのがかなり遅いのだが、2007年から。しかも、ネットから離れていた時期が2年くらいある(2013年、14年)。それでも、今年に入るまでおよそ10,000個くらいブクマしていた。結構な数だ。
  2. その時その時、思いつくままにブクマしてきた。基本的には、気になっていることや、話題になっていること、自分が面白いと思っている人が言及したものをブクマしていた。案外、ひとつひとつが体験として記憶に残っていて、当時の"気分"を思い出せて、良い振り返りになった。「お前、そんなことに興味があったんけ」と自分にツッコミを入れること、多々だったが。消えている記事・サービスがあるときは、とにかく悲しい…。
  3. で、私がいまやっている”はてブの整理”とは、およそ10年分の記事をタグごとに読み返しながら、必要のないものは削除する、というものである。はてブの断捨離だ。
  4. まずは、今の自分が興味のないタグから着手して、およそ24時間かけて、残り1600個、となっている。結構、減ってきた。
  5. ちゃんと数えていないが、"また未来に残そう"と思うものは100個に1個くらいだ。すでに血肉になったから削除したものもあるし、自分の興味の変遷というのも大いにあるだろう。自分の見る目がなかったのだろう、とも思う。
  6. が、「なんで未来に残るものがこんなに少ないんだろう」とも思う。とにかく、不易なものが少ない。そのときは、”これは決定的に大事なものだ”と思ったものでも、数年経って振り返ると読むに耐えなくなっていたりする。
  7. そもそも、"10年後にも残る"くらいな意識で作られた・書かれたものが少ないこともあるだろう、と思った。未来に向けて作る、という感覚がないという、か。もちろん、ネットだけではなく、本・映画・テレビ・ゲームなどの様々な表現(そして人間)、もそうなんだけれど。
  8. 10年分の記事を読みながら、ネットがいかに社会と接続したかを体感できた。その分、これからの表現活動は"時間"の感覚が必要になってくるのだと思う。他のジャンルもできていない今だからこそ、ネット上での物づくりのプレゼンスを上げる良いタイミングだろう、と思う。
  9. 自分がドの付くエンタメ業界に生きてきたから、というのもあるが、かなり流行を追ってきた。そして振り返ると、ほとんどのものが消え去っていた。この虚しさたるや、かなりクルものがある。が、幾許かは"未来に残る"ものもあって、少し救われている。
  10. 今回のはてブの整理の作業は、自分の"時間"感覚を研ぎ澄ます効果があった、気がする。オススメです。
  11. そうそう、この10年以上、はてブがあり続けてくれたことに感謝だ。はてな、ありがとう★

ある日偶然、自分の仕事と出会った時の嬉しさ

 嬉しいことがあった。
 詳しい経緯は心に残しておきたいので省略するが、ジブリの『熱風』で編集をやっていたときに、震災後の「デモ」特集で、哲学者の國分功一郎さんに原稿を書いていただいたことがあった。タイトルは「パリのデモから考える」。入社2年目のときだ。
 この年越しは和歌山の熊野にいたのだが、土地のパワーだろうか、自然と南方熊楠を読んでいて(土宜法竜との往復書簡をまとめた本)、中沢新一に還ってきた。そして・・・

哲学の自然 (atプラス叢書03)

哲学の自然 (atプラス叢書03)

  • 『哲学の自然』では、中沢新一との対談のなかでジブリの原稿を取り上げてくれていた。

民主主義を直感するために (犀の教室)

民主主義を直感するために (犀の教室)

  • 『民主主義〜』では、原稿を再掲してくれていた。一番最初の稿に。

 ある日、偶然、自分が関わった仕事に触れて、喜びをめいいっぱい味わった。自分の仕事が違う形で現れたから、だろうか。そして、國分さんに原稿依頼して話したカフェでのドキドキ感を思い出した。

社会に絞め殺される者たちの恐怖〜映画『わたしは、ダニエル・ブレイク』

試写で。昨年のカンヌ国際映画祭パルムドール作品。
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映画『わたしは、ダニエル・ブレイク』公式サイト
ケン・ローチ作品、カンヌ最高賞に - BBCニュース

  1. 最初はおじいさんの滑稽さがちょっぴり切なく面白いが、より社会的弱者なケイティの登場によって、だんだんと、登場人物たちが”社会”によって絞め殺される。マジで、恐怖。感動作として売られているみたいだが・・・、自分にとっては、これは”見えていない現実を刮目せよ”という恐怖映画だと思った。ある意味『闇金ウシジマ君』。観終わると、非常に疲れ、社会について考えなくてはならない、と感じさせられる。
  2. 感情の行き交いをあえて抑えめに、あるときには省略して描いていることで、観ている者はそこに感情と頭を持っていかれる。社会問題へ関心を寄せる手法を、映像表現としてやっていた。冒頭の2分くらい続く”黒”も、「一体なんなの?」と観客へ積極性を要求したのだろう、私はうまくハマった。
  3. イギリスの貧困を扱った映画だが、日本にもあること。涙は流れるかもしれないが、それは、感動ではなく、恐ろしさと惨めさと悔しさからだと私は思った。
  4. 私個人としては…正直にいうと、バカみたいな感想だが、貧しくなりたくない、と第1に思った。この映画は、制度によって貧困にハメられた者たちのあがきを描いていくが、それを見ながら、必ず自分はそうならないようにしたい、制度をハックしたいと思った。第2に、自分の身の回りの大事なひとたちを、貧困の憂き目に合わせられないようにせなば、と思った。そのためには、行政のあり方をしっかりと見極めない。一つ目と二つ目の動機をもとに、見えにくい現実を捉えたいと思った。
  5. 見るものを”動かす”ことに焦点を絞った『わたしは、ダニエル・ブレイク』、必見です。ちなみに、製作はBBC、いろんな声のあげ方があるな、と勉強になった。

【年越し】この10年間について〜1986年生まれの私の20代

およそ10年、どう生きてきたか

  1. 1986年生まれの自分は、今年2016年が最後の20代であった。”20代”とはなんと甘美な響きだったろう。
  2. 年越しでは、多くの人がやるように、前年を振り返って翌年について新たに心と身体と頭を整理する。ついでに、今年は20代のおよそ10年間についてもメモしよう、と考えた。
  3. 20歳になったのが2006年なので、2006年から今年までを振り返る。果たして、自分という人間はどう出来上がってきているか?

1986年生まれ

  1. 出生数は138万人くらい(c.f.1948年は268万人/1973年は209万人/1994年は123万人/2015年は100万人)
  2. 86年生まれといえば、沢尻エリカ上野樹里、杏、ハライチ澤部、松浦亜弥スザンヌ本田△ダルビッシュ、(テニスの)ナダルトレンディエンジェルたかし、など。
  3. 私は両親が26歳のときの子どもで、私の両親はともに1960年生まれ(出生数は160万人)。
  4. サラリーマンの父の仕事で転勤を数回繰り返した。一人っ子で、3人家族。小学時代は父の単身赴任で、母との二人暮らしが長かった。
  5. 0歳〜5歳を佐賀県で過ごす(1986年〜1991年)、6歳〜12歳を長野県松本市で過ごす(1992年〜1998年)、13歳〜19歳を京都で過ごす(1999年〜2005年)。
  6. 1994年(8歳、小学2年生)、オウム真理教による松本サリン事件の際、近くの社宅で暮らしていた。近所の人たちが「あの河野さんがねぇ…」と最初話していたことを覚えている。また、我が家にも警察による事情聴取があった。事件当夜、母と私はウィンブルドンをTVで見ていた。風向きが違えば死んでいた、と後に知った。父は深夜、事件後のビルの横を通って「なんかあったらしい」と思いながら帰宅していた(このとき、父・母は34歳)。
  7. 1995年(9歳、小学3年生)、阪神淡路大震災。自分の小学校へ、親戚を頼って避難してきた同級生がいた。初めてのカラオケはTRF「BOY MEETS GIRL」。銭湯で週刊少年「チャンピオン」を読み始める。
  8. 1997年(11歳、小学5年生)、酒鬼薔薇聖斗。その影響か、自分の小学校の校門に動物の死骸が置かれることが頻出。映画「もののけ姫」公開、「もののけ姫はこうして生まれた。」TV放送。エヴァ再放送で見る。
  9. 1998年(12歳、小学6年生)、長野オリンピック。開会式などを見に行く。宇多田ヒカル「Automatic」、hideの死、iモード
  10. 1999年(13歳、中学1年生)、ハリー・ポッター、映画「マトリックス」公開。9月に転校し、転校先の京都の学校で先輩からイジメに合う。2chと出会う。マリみてSS漁る。
  11. 2000年(14歳、中学2年生)、小説『バトルロワイヤル』をクラスで回し読み。ネオむぎ茶事件、加藤の乱
  12. 2001年(15歳、中学3年生)、受験勉強、小泉純一郎。ブッシュJr.、9.11同時多発テロ。K1マーク・ハントVSジェロム・レ・バンナ。受験で「千と千尋の神隠し」を映画館で観ず。
  13. 2003年(17歳、高校2年生)、Winnyラグナロクボンバーマンオンライン。M1笑い飯奈良県立歴史民俗博物館」。
  14. 2005年(19歳、大学1回生)、YouTube。これまでの人生で見たかった映像を漁り、過去の映像を掘る。B・N・F。

2006年〜20歳〜

  1. ライブドア事件トリノ五輪BSE問題、Wii、「デスノート」、「涼宮ハルヒの憂鬱」。
  2. 私は大学2回生。日本法制史法哲学など勉強していた。変わらずYouTubeはひたすらに観ていた。サークルの先輩づてに、ミクシィを使い始めた。日記を書きまくる。ウェブ自体への興味はなかったが、いつの間にかミクシィで接していた。
  3. 京都にいて、社会との接点を持たなかった。京都は学生さんと老人に良くできた街で、現実社会をほとんど見ないで済む。たまに直面するときは、割りとアウトローな話が多い。京都の人はすべからく、とは思わないが、自分の場合は、中学のときから(「パッチギ!」の舞台の辺りに住んだゆえ)、フィクション度の高い環境で生きていたように思う。そんな自分に、ミクシィはとてもフィットした。

2007年〜21歳〜

  1. パケット定額、陣内&藤原紀香結婚(関西として一番大きな話題はこれだったろう)、初音ミク発売、エンタの神様
  2. 大学3回生。国際政治や公共性論を勉強していた。バイト先の友人と車で旅行したときに、友人がかけた音楽「エアーマンが倒せない」「やらないか」などでニコニコ動画と出会う。また、ブログはyaplogなどでやっていたが、梅田望夫ウェブ進化論」を読んではてなダイアリーに。
  3. 就職活動を考える時期になったが、正直、まったく分からなかった。特にやりたいこともなく、周りがみんな大学に残っていたので、大学に残れるほど勉強していないからどうしよう、と思っていた。が、留年している先輩がほとんどだったので、まあいいや、とも思っていた。が、どうにか生きなければいけない…と思いビジネス書に手を伸ばし始めた。その流れで「ウェブ進化論」に出会う。つまり、ウェブの文脈が自分にはなく、ビジネス新書文脈での出会いだった。

2008年〜22歳〜

  1. iPhone3G、北京五輪フレッツ光橋下徹
  2. 大学4回生。大学にほとんど行かず。はてなでアルバイトがスタート。生きてきた世界が違うので、毎日面食らってた。やっていた仕事は総務で、裏方の仕事というものに出会った。また、ライターとして半年くらい書いた。
  3. 自分にとっては、完全に「はてなイヤー」。初めて”社会”と接したのが、2008年の”はてな”だった。ベンチャーならではの超スピードと、身軽さがあった。もともと自分は常識が足りず、はてなでの仕事を通して学ぼうとしていた。そこで働いていた人たちの生き方や考え方に大きな影響を受けた。また、長い付き合いとなる友人とも出会った。私の20代がスタートした感がある。

2009年〜23歳〜

  1. 政権交代、草食男子、森繁久彌死去。
  2. 大学5回生。見事に留年し、半年間だけ大学へ通った。また、スイッチオンプロジェクトに参加し、スタジオジブリ鈴木Pへインタビューをして、その後、ジブリでアルバイトをすることになる。
  3. はてな、スイッチオン、ジブリ、と自分にとってきっかけになることがたくさんあった。とは別に、先輩たちとコミュニティを作って、活動をしていた。そこでの知見が、自分の人生に彩りを与えてくれた。たとえば、宇野常寛ゼロ年代の想像力」を教えてもらって読んで感動し、ジブリで最初にした仕事は「赤毛のアン」特集で宇野さんに原稿を書いてもらうことだった。

2010年〜24歳〜

  1. はやぶさ帰還、iPadニコニコ大会議アバター、「借りぐらしのアリエッティ」。
  2. ジブリ1年目。アルバイトから社員となり、出版部という部署で働きつつ、ひとりネット事業部的な動き方をしていた。iPad特集をやったり。また、鈴木Pの部屋へ毎日のように通って、古今東西の映画を観ていた。
  3. 鈴木Pから「キミという人間がどうやってできたのか、探究しなさい」と言われていた。そうすると「人と社会のことが分かる」と。その当時はよく分かっていなかったが、最近すごく腑に落ちる。

2011年〜25歳〜

  1. 東日本大震災まどマギ、パワースポット、「コクリコ坂から」。
  2. ジブリ2年目。ジブリでの仕事もあったが、それとは別に、友人たちとノンフィクション雑誌を作ろうと動いた。東日本大震災を経験して、ちゃんと足を使って作るメディアをやらねばマズイ、というのがきっかけだった。震災がテーマのノンフィクション雑誌を作るのはコストがかかりすぎて頓挫した。しかし、友人たちが「自分たちの身の回りで、足を使ってノンフィクションをやるとしたら・・・」と、ねとぽよが始まった。会社以外の時間はねとぽよに使って、2011年末に第1号が刊行された。
  3. 自分の人生として、はてなジブリ、という嫌でもネットを意識せざるを得ない生き方をしていたが、ねとぽよという形でそれが極まった。5年前の今ごろは、第1号を作り終えて(電子書籍なので発売当日朝まで勝負できた)、コミケに行かず爆睡していた。

2012年〜26歳〜

  1. ロンドン五輪、LINE、ソシャゲ、ニコニコ超会議、「桐島、部活やめるってよ。」。
  2. ジブリ3年目。ジブリでの仕事はありつつ、相変わらず、ねとぽよをやっていた。ねとぽよ2号は「ARG」を特集していて、非常に自分好みだった。いくつかの理解があるが、私は現実世界は物語によって書き換えられる、ということに興奮をした。ネット小説「無料公開!「オナホ男」| ねとぽよ」は名作だと思う(さすがに今読むとスマホじゃないからしんどいが、PCでは最高)。ねとぽよは、今なら超ヒットしていたと思う、早すぎた。
  3. 裏方以外に、自分でもプレイヤーとして家入明子さんへ取材をして料理を作ってもらったり。いろいろやって、楽しかった。ちなみに、明子さんとの出会いで、のちに妻となる女性とも出会う。

2013年〜27歳〜

  1. 東京五輪招致、「かぐや姫の物語」、出雲伊勢遷宮
  2. 出向1年目。ジブリから某メディア企業へ出向。はてなジブリと、特殊な会社で働いていたせいで、まったく畑違いで、ゼロから学ぶ。
  3. 妻となる女性と付き合う。自分の中で「(妻)」というテーマが生まれる。

2014年〜28歳〜

  1. 御嶽山噴火、笑っていいとも終了、STAP細胞
  2. 出向2年目。とにかく先輩に付いて仕事をしていた。つまり、2013年と2014年はほぼネットを使っていない。
  3. 結婚1年目。元旦に入籍。日々幸せ。

2015年〜29歳〜

  1. IS、安保、ラグビーW杯、スタジオ地図
  2. 転職1年目。映画のウェブ宣伝を主に担当。そこでおよそ3年ぶりにネットに戻ってきて、最初は「変わったもの」「変わってないもの」の仕分けで忙しかった。2013年までに付き合いのあったネット関係の友人・知人に教えを仰ぎ、どうにか形にした。
  3. 結婚2年目。日々幸せ。フェーズ上がった。

そして、2016年〜最後の20代〜

  1. SMAP解散、ポケモンGO、「君の名は。」、VR、人工知能まとめサイト、トランプ
  2. 転職2年目。映画のプロデューサーとして、より全体を統括。超楽しかった。ウェブについては、仕事ではある程度距離を置いているが、プライベートではこのブログのように、意識的にSNSを使うようにし始めた。ついに、プラットフォームが完全に社会と接続し、いろんな問題が起こっているが、個人的にはとても前向きに捉えている。プラットフォームが成熟したことで、作りたいものや、書きたいことがあるチームや個人が、水を得た魚のように動き回っている。
  3. VRもREZを体験してから一気に興味が湧いた。人工知能もついに日の目を見る段階に来て、勉強してみようと思った。面白くなる期待が膨らんだのが2016年だった。
  4. 多くの人が感じているように、見えない不安も増幅している。それについては、2017年にところどころで良いことも悪いことも噴出する気がしていて、自分の仕事で何かできないか、と思っている。
  5. 結婚3年目。日々幸せ。フェーズ&レベル、上がった。

・・・こんな感じで、その時のことを色々と書いてみると、自分の今がどうなっているのか分かるもんだなぁ、と思った。ネットの移り変わりも追体験できた。2017年の社会と人の方向性の展望も朧気ながら見えてきた。新年のことは、年が明けてから考えようと思う。

30代の年越しは、何が待っているのだろう?

  1. 熊野に来ている。今年2度目。前回と同じく、川湯温泉みどりや、という宿に泊まっている。ここで年を越す。
  2. 露天風呂が素晴らしい。混浴温泉なのでパートナーとともに入れる。山の中、川のほとりにあるため、風が通る。冬だから、前回来たときよりも、気持ちいい。夜空には星。天を見上げて湯船につかると、星の中を泳いでいるようだ。
  3. 画像は宿の公式サイトから。露天風呂にカメラを持ち込むわけにはいかず。また、自分ではこんな星空撮れない。肉眼では星は瞬いていて、写真とは異なるが。f:id:comajojo:20161231053630j:image
  4. 年末は、20代最後の今年2016を振り返り、新年明けたら2017のことを考えようと思う。また、20代の自分と社会を振り返ろうと思う。
  5. そういえば、年越しの仕方も変わった。
  6. 働き始めた最初の年2009(まだバイト身分だったが)、度重なる私の無駄遣いが社内で話題になり、上司が腰を上げた。無駄遣いといっても、旨い飯を食べ、酒を覚え、本を読み、舞台や映画を観て、という京都にいた頃に思い描いた東京の文化的生活を送っただけ。なのだが、まるっきり給料に見合わず、お金がぜんぜんなかった。
  7. 上司は給料をアップしてくれたわけではなく、元銀行員の先輩を呼んでくれて、彼女が私に「貯蓄の仕方」をレクチャーしてくれた。そのときに、先輩からまず言われたのが「年にいくら貯めたいか?」で私は「100万す」と答え、「理由は?」と聞かれ、そのとき、私は理想の年末年始の暮らし方を答えたのだった。
  8. 私は「京都で年末年始に100万つかいたい」と答えた。呆れた京都バカだなぁと思う。その後、先輩の教えをまるで守らず、貯蓄はならず、京都で100万をつかうこともなかったが。
  9. 京都で年を越したかった理由は、もちろん文化を享受しまくりたかったのもあるが、一番はあそこへいくと創造性がみなぎるからだ。年越しは、今年を振り返り、来年を迎えるという、大変な苦労をするので、できるだけ簡単にやりたい。頭がキレキレだと楽だ。その点、私を最強にしてくれる京都が、自分にとってベストだった。
  10. 20代そこそこの自分がいつかやってみたい年越しの仕方は叶っていないが、ここ数年、良い過ごし方ができていると思う。
  11. パートナーと過ごす年末年始がこれで4回目。毎年温泉宿で過ごしている。温泉宿での年越しは、パートナーと一緒に発見した喜びだ。年末にしっかりと身体を流し、露天風呂で明けましておめでとうと言う。さらに、今年は熊野ということもあって、近くに神社も加わった。なかなかに、強いではないか。
  12. 20代最後の今年、良い20代を過ごしたなぁと思いながら年を越せそうだ。30代の年越しは何が待っているのだろう。いろいろあるだろうな。

また京都を通りすぎた

  1. 九州にいる叔父宅へ行くため昨日朝10時頃と、帰京するため本日いま21時に、京都を通り抜けた。新幹線はあっという間だ。
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  3. いつ京都に帰れるのだろう、か。