京都へ移住します

「帰る」から「移住」

 "いつか京都帰りたいブログ"という名前が影響したのか、不思議なもので、来月、東京を出て、京都へ移住することにしました。京都では、中学時代〜大学時代の11年間を過ごしました。その後、社会人として東京で8年間生きて、再び京都へ戻ることに。普通なら「京都に帰る」ということになりそうなものですが、私の意識は「京都への移住」となっています。
 「帰る」ではなくて、「移住」という言葉が自然と出てくることが、この8年間の"東京生活"、"スタジオジブリおよび日本テレビでの仕事生活"、4年間の"結婚生活"を現していると思いました。そんなことを書いてみたいと思います。

スタジオジブリでの生活

 私の出発点は、はてなでの仕事があります。2008年当時、京都の大学4回生だった私は梅田望夫さんの『ウェブ進化論』を読み、はてなアルバイトに応募しました。最初は総務として働き、のちに「はてなブックマークニュース」というウェブメディアが立ち上がる際にライターも兼務するようになりました。そのとき出会った稲葉ほたて君という編集者・ライターは、ずっと私の大事な同士であり友人です。
 はてなでライターとして活動するなかで、次第に、私には課題が生まれました。なんで、稲葉ほたてのように、しっかりと自分の立脚点を持って、記事を書けないのだろう? と。そこで出会ったのが、スイッチオンプロジェクトでした。自分を見つめて、相手のことを考え、読者へ届ける、という執筆作業を実地に学んでいきました。そして、私が取材したのは、スタジオジブリ鈴木敏夫プロデューサーでした。
 大学を留年した2009年、鈴木敏夫さんへ取材をして、しばらく時間が経ったあとに上京し、スタジオジブリでのアルバイトが始まりました。出版部という本や雑誌を作る部署に配属され、編集者として仕事を始めました。スタジオジブリは小さな町工場みたいな場所で、しかも、女性が多くてとても元気な会社でした。私はずっと”一人っ子&オタク”な人生だったので、たくさんの女性の中で生活をすることに慣れるまで数ヶ月かかったことを覚えています。
 ジブリは会社でありながら、学校のようでした。こう書くと、とっても子どもっぽいのですが、当時の私にはそういう場所でした。人間について学び、人間関係について学び、感情について学び、信頼について学びました。ジブリはいつも「人間とは」と考える風土だったからです。ジブリでの経験があったから、私はのちに妻となる、魅力的な女性と出会うことができました。

弥恵との出会い

 2012年秋、ジブリから日本テレビへ出向することになりました。当時、私には好きな人ができました。弥恵という名のその女性は、出会ったその日から、私のテーマになります。弥恵という人間は、一体どんな人なんだろう、と。当時、それぞれに課題を抱えていた私たちは、一緒に力を合わせて乗り越え、しばらくしてパートナーとなりました。日テレでの仕事が終わったあと、毎日のように弥恵が住む家へ通いました。
 彼女はよく、東京が身体に合わない、と話していました。私はその話を聞くたびに、心が傷つき、耳をふさいでいました。なぜなら、私の仕事は映画作品をプロデュースすることで、それは東京でないと成り立たない仕事です。東京を離れたい、と言われることは、私から離れたい、ということと同じでした。だからいつも、その場しのぎで、彼女の言葉を流していました。
 弥恵が屋久島へ2ヶ月以上もの旅をしていたとき、私は休暇を取って、婚姻届を持って彼女に会いに行きました。私のもとを離れて、どこか遠くへ行ってしまうのではないか、と思ったからです。屋久島から戻ってきて、私たちは入籍しました。

日本テレビでの生活

 日本テレビでは、私は映画のAP、のちにプロデューサーとして、様々な実写・アニメ映画に携わっていました。映画の仕事は、毎日様々な人と出会います。監督、脚本家、作家、制作会社の方、現場スタッフの方、役者さん、配給会社の方、宣伝チームの方、事務所のマネージャーさん、作品ごとの製作委員会各社の担当者さん、メディアの担当者さん・・・と、毎日違う仕事をするため、刺激に満ちていました。
 日テレへ出向が始まったタイミングで弥恵と付き合い始めたので、日テレでの時間は、弥恵との時間でもありました。仕事はいつも忙しかったので、なかなか夫婦の時間を取れないことは、ずっと私の課題でした。その頃、弥恵は東京で生きるすべを様々に模索をしていましたが、私は無頓着でした。
 ある時、私が体調を崩してしまい、彼女が私を連れて数日旅行に連れて行ってくれました。旅先で、私たちは様々なことを話しました。東京で働いていると耳に入らないような言葉も、旅先では素直に身体へ入ってきました。私にとってはとても不思議な経験でした。
 東京で仕事をし、弥恵とともに東京の外へ行き、という生活を続けていました。ある時期は、東京と新潟との二拠点生活を試みたことがあります。でも、一緒にいたい我々には、合わないライフスタイルでした。

主語の変化

 結婚4年目の昨年末、日本テレビを退職しました。大きな理由は、結婚生活を続けるなかで、私の主語が「私」から「弥恵と私(私たち)」へと変化していったからです。「私たち夫婦」の決断として、東京を出よう、と。
 私たちにとって、離れたくない親しい友人・知人たちが東京にいます。今年に入って、一人一人に、京都へ移住することを伝えていっています。このブログも、だから、書いてみようと思いました。
 東京は、私にとって、自分の立脚点を持った場所でした。ずっと好きだった人の近くで働き生活をする場所でした。また、パートナーができ、一人っ子オタクだった私に、「私たち」という主語が生まれた場所でした。そして、大事な友人たちと出会えた場所でした。
 「京都へ帰る」ではなく、「京都へ移住する」という意識になっていたのは、つまり主語が「私たち」へと変わったからだと思います。「私」だけなら帰るなのですが、「私たち夫婦」にとっては新しい場所だからだろうな、と。今回ブログを書いてみて、気付きました。